樺戸集治監と囚人足跡(樺戸郡月形町)

明治時代の監獄の一種である「集治監」。当時フランスが採用していた中央監獄制度(メゾン・セントラル―全国の「メゾン・セントラル」なる名称のマンションやアパートにお住いの皆さん。皆さんの建物名をフランス人に教えてみると、ちょっと驚かれるかも知れませんよ)に倣い、明治政府はまず国内の二カ所、東京と宮城に国営の集治監を建設し、それをモデルとして地方の各監獄を指導していく予定でいました。しかしその構想は予算の都合で上手く運ばず、やがて時の総理大臣、伊藤博文による以下意向を受け、ここ樺戸に北海道初の集治監が建設されます。
①明治政府に反抗する危険分子や凶悪犯を隔離して、治安を維持することができる
②囚人の安い労働力を利用して開墾させるとともに、自給自足させれば経費も節減できる
③更生した囚人を北海道に定住させ人口を増やせる

(1)月形樺戸博物館

樺戸が建設地に選ばれた理由として、背後に山脈が連なり、目前に石狩川が流れることで、囚人の脱走を困難にする地理的要因があったことに加え、川沿いの肥沃な大地が農耕に適していたから、と言われています。集治監の本庁舎は、今は博物館となっております。
月形町
月形町

館内は撮影厳禁。その数少ない例外が、この典獄(監獄長)部屋。
月形町

右奥はトイレへの通路扉ですが、囚人が暴動を起こした際の典獄の脱出路も兼ねていました。当時、囚人への使役は過酷を極め、伊藤博文の側近を務めていた太政大書記官は、「囚人が死んだとしても監獄費の経費節減になる」と公然と発言し、それがまかり通っていた時代でもありました。今なお北海道の大動脈である、札幌旭川を結ぶ国道12号、旭川網走間の同39号は、もともと囚人たちがここ樺戸と網走の監獄を結ぶ道を建設したものが、その前身となっております。そうした負の歴史を学ぶ資料を多く展示しているこの博物館、ほとんどが撮影禁止であるのが何とも残念です。
月形町
月形町

撮影が許可された展示場入口。奥に見えるのが初代典獄、「月形潔」の肖像。刑務所の所長名がそのまま町の名前となったのですね。

(2)囚人の植えた杉並木

青森の杉が植えられております。本州から送り込まれた囚人にとって、この杉は追われた故郷を思い出すよすがとなっていたようで、植林使役は彼らの間で人気の高いものでした。

(3)囚人棟梁によって建設された寺

北漸寺。本堂の欄間も玄人はだしの美しい仕上げです。近年になってこの美しい本堂の真横に鉄筋コンクリートの別棟が建設され、遠景は甚だ残念なものとなっているため、ここでは紹介を差し控えます。
月形町
月形町
月形町
月形町

(4)囚人墓地

篠津山霊園に囚人の墓地が建設されたのは、実は最近のことです。
月形町

樺戸集治監では、1881(明治14)年の開庁から1919(大正8)年の廃監まで、計1,046名もの囚徒が命を落としています。死因は心臓麻痺804人、衰弱60人、看守による斬殺41人、作業中事故33人、とされています。彼らの置かれていた環境を如実に物語る数字です。しかもこのうち、肉親に引き取られた遺体はわずか24。残る1,022人が無縁仏となりました。囚徒の大半が本州以南出身者であったこと、「懲役者」である身分が遺族の引き取り拒否に繋がった、と言われています。
地元の有志が、ここに囚人ごとの墓碑を建て始めたのは、1981年になってからのこと。「自分たちが子供のころ、ここ月形は田舎だとコンプレックスを持っていた。しかし近隣の学校にスポーツ大会等で遠征に行くと、自分たちの校舎の方が遥かに立派だということを知り、これらは囚人が中心になって建設してくれたことを知った」という彼らが、墓地を整備し、ようやく無念のうちに死んでいった囚人たちの、終の棲家が完成しました。

享年24。今の北海道は、明治時代にこの地に入った屯田兵と、そしてこうした囚人の、文字通り命を賭けた労役のうえに成り立っていることを思わずにはいられません。
月形町

(5)月形町の廃屋

月形町
月形町
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For English.
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Kabato Prison (Tsukigata Town, Kabato County)

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